2013年に公開された「風立ちぬ」
最後の堀越二郎・菜穂子・カプローニのシーンが意味深で、妙に印象に残っています。
初めて見た時は
「え?今のどういう意味?」
「二郎は死んだの?生きてるの」
って思いました。
この記事では、そんな風立ちぬの最後のシーンが意味することを考察していきます。
風立ちぬの最後のセリフとシーンを考察
風立ちぬの最後のシーンで疑問に思ったのは
- 二郎とカプローニがいる不思議な空間はどこなのか?
- 二郎は死んだのか?
- 菜穂子の「生きて」の意味とは?
- 二郎の「ありがとう」の意味は?
の4点でした。
私の考察は
- 二郎とカプローニがいるのは二郎の夢の中
- 零戦を作った責任から生きている罪悪感に苛まれていたけど、菜穂子の言葉で生きる道を選んだ
- 二郎の「ありがとう」は、菜穂子の「生きて」で生きることへの許しを得たと思ったから
というものです。
菜穂子の死から数年後、あるいは数十年後。
病で死の淵にいる二郎が見た夢での出来事かなと思いました。
鈴木敏夫が明かしたもう一つの結末とは?
ただ、鈴木敏夫が明かした宮崎駿の当初の案を聞くと、また違った側面が見えてきます。
『風立ちぬ』のエンディングは当初、菜穂子のセリフは「来て」と2回繰り返されるものだったが、「生きて」に変更された。https://t.co/hmkcwKpjsepic.twitter.com/d3HBP3b31s
— ジブリのせかい【非公式ファンサイト】 (@ghibli_world) May 1, 2018
実は、最初は「生きて」じゃなく「来て」だったとのこと。
生きてと来てじゃ意味が全く違いますよね。
来てだったら、死の淵にいる二郎を菜穂子が呼び寄せるという事になります。
ラストが変更された理由
当初、宮崎駿の頭にあったラストシーンの最後は、二郎の死後の世界。
そしてカプローニと共に、天国と地獄の狭間にいる二郎に菜穂子が「来て」というものでした。
地獄か天国か彷徨っている二郎に、天国へ来てということなんでしょうね。
でも、この結末は日本人の死生観にそぐわないということで、ボツになりました。
※日本人の死生観=いつも死んだ人がそばで見守っている。
風立ちぬで死ぬのは菜穂子だけ?
二郎は今後も生きて、菜穂子は死んでいるんだと思いました。
一方、カプローニのほうは劇中では幻のような存在で、最初から二郎の中にしか存在しないメフィストフェレスの役割ですね。
風立ちぬの最後の手紙には何が書いてあったのか?
菜穂子が山に帰るシーンでは、机に手紙が三通置いてありました。
二郎、黒川家、加代に向けたものだと推測されます。
黒川家と加代には感謝の内容。二郎には幸せだった、仕事を頑張ってほしいといった内容だったのではないでしょうか。
菜穂子の性格から悲しい内容ではなく、残された人が前に進めるような文面にしたのではないかと思います。
まとめ
風立ちぬのラストシーンはもう1つの案であれば、全く違う最後になってました。
「来て」だったら、全ての辻褄が合います。
でも作品全体のテーマが「生きねば」なので、やはり「生きて」のほうがしっくりくるかもしれませんね。